109 view | 2018/06/23 00:00

都会のマタギと田舎のマタギ その11 デルタ191便の悲劇

都会のマタギと田舎のマタギ その11 デルタエアライン191便の悲劇


LCCを除くアメリカの航空会社でデルタ航空は、ユナイテッド、アメリカンとともに3大航空会社だが、それぞれ全日空、日本航空とのマイレージグループを持つ2社に比べ、日本人にはすこし馴染みが薄い。アトランタ空港をハブにしたリーズナブルなデルタは今回のアメリカ旅行で米国内で多用した安全性の高い航空機会社である。


ただ、私の思い出は1985年のダラス・フォートワース空港でのデルタ191便の墜落事故にある。当時私は1年の研修アサインメントでIBMの米国本社に赴任していた。

大型コンピュータービジネスの陰りが出始めた中で、パソコンが企業、個人に拡大したその時期のIBMのヒーロー、「ダン・エストリッジ」。1980年にわずか14人で始めたIBM PC事業は従業員10,000人、4,500Mドルの巨大ビジネスに成長していた。

あるとき、Armonkの本社のエスカレーターで偶然上下にすれ違い、’Ya’と声をかけあったときはヒーローとの遭遇に興奮したものだった。


その彼が奥さんやスタッフと共に1985年8月フロリダからの移動中に亡くなったのだ。

着陸直前に気候の急変で墜落し爆発炎上して135人の犠牲者を出した。


米国のPC事業は、大型機のIBMカルチャーを廃し、自前主義をやめ、マイクロソフト、インテルなどに依存したオープン戦略で時間を買うことに徹していた。大きくなったが、互換機の台頭や製品品質問題など、PC事業の問題も多かったが、彼は離れ、‘将来の幹部へのキャリアを積むため’に全世界の製造のトップになっていた。


数か月後、IBMは彼を偲ぶため、全世界の役員会を、PC発祥の地フロリダのボカレトン工場で行う事となり、日本からも当時の日本アイ・ビー・エムの椎名社長が駆けつけた。ニューヨークから北に車で1時間ほど郊外に行ったアーモンク本社での会議を終えて数十人の幹部は移動中の事故リスクを防ぐため10数機の社有中小型機に分乗して南に飛んで行った。

椎名社長が大学の講演を引き受けていた為に、私はダラスに事前打ち合わせに飛び、翌日の夜社長を空港に迎えに行った。

飛行機を待ちながら、わたしは社長が乗っているフライトが、デルタ191便と同じフライトだと気がついたのだ!(事故後、フライト番号が変えられていたのですぐにはわからなかった)

追悼の会議に出た社長が同じ便にのってくるなんて。。しかも天気は雨だった。

飛行機は無事到着、翌日の社長の講義もうまくいって私はアーモンクの家に帰ることができた。

翌年からIBMのメインフレーム事業中心の体質の限界が露呈し、IBMはやがて外の血を入れて大改革を行う。もちろん10数機の社有機も売られた。

大型顧客担当営業の本社部門に研修に渡米した私が、帰国後PC事業を担当するとは思いもしなかったが、ダン・エストリッジとの遭遇には特別な感慨がある。

IBM PC事業は今やNECと共にLenovo社に買収され、最近は東芝のDynabookがシャープの傘下になるという。でもPC事業に携わっていなかったら、沢山の友人、戦友はできなかった。IBM PC事業生みの親、ダンは私の恩人だ。

そうしたパソコン関係のご縁から、7月7日米国シアトルのJapan Fairで熱中小学校の模擬授業を中村放送室担当とやらせていただけることになって渡米する。

そこで、一番安かったのは、成田からのデルタ航空直行便、エコノミー往復。今からすこし体力を温存して行ってまいります。

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0堀田 一芙


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